心斎橋・本町の民泊・一棟貸し|御堂筋を背骨に、商いの400年を歩く

大阪の「商い」の背骨、御堂筋。その両側に、性格のまるで違う街が肩を並べています。ブランドが軒を連ねる心斎橋、古着とレコードのアメリカ村、そして薬と繊維の問屋が400年続く船場・本町。買い物にも街歩きにも中心地なのに、一本入れば問屋街の静かなオフィス街——昼は賑わい、夜は静かに眠れる、大阪のど真ん中のエリアです。

心斎橋——川に架かっていた「心斎さんの橋」

「心斎橋」は、いまでは大阪随一の繁華街の名前ですが、もとは文字通り一本の橋の名前でした。元和8年(1622年)頃、この地を東西に流れていた長堀川が掘られた際、岡田心斎(美濃屋岡田心斎)という商人が私財で橋を架けたことに由来するとされます。「心斎さんが架けた橋」だから心斎橋、というわけです。

その心斎橋筋は、道頓堀の芝居小屋と新町の遊里を結ぶ道として、1600年代から人通りの絶えない通りでした。18世紀半ばに呉服屋「松屋」——のちの大丸——が店を構えた頃には、すでに大阪を代表する買い物の町になっていました。近代には「東の銀座、西の心斎橋」と並び称され、銀座をぶらつく「銀ブラ」に対して「心ブラ」という言葉まで生まれています。

肝心の長堀川は戦後に埋め立てられ、いま川はありません。それでも「橋」の名前だけが生き残って、街の名前になりました。黒門市場が寺の門の名を残したのと同じで、大阪の地名は、消えたものの名前をよく覚えています。

大丸心斎橋店——御堂筋に遺る、ヴォーリズの名建築

心斎橋筋を歩くと、一軒だけ時代の違う、荘厳な石造りの建物が目を引きます。大丸心斎橋店 本館。設計は、近江八幡を拠点に日本じゅうで教会や学校を手がけた建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ。御堂筋の拡幅と地下鉄の開通に合わせ、1933年(昭和8年)に竣工しました。心斎橋筋側と御堂筋側で外観の様式が異なり、装飾には幾何学的なアール・デコが用いられるなど、複数の様式が溶け合ったヴォーリズ建築として知られます。

この建物は、一度建て替えられています。2015年に閉館し、約4年をかけて、2019年(令和元年)に新しい本館が開きました。86年ぶりの建て替えですが、ただ壊して建て直したのではありません。歴史的価値の高い御堂筋側の外壁は、躯体ごと元の位置に残したまま保存され、ヴォーリズが手がけた室内の装飾も一部が復原されました。新しい店でありながら、あの重厚なファサードは昔のまま。買い物のついでに見上げるだけでも、昭和の初め、大阪が「街の顔」にどれだけ手をかけたかが伝わってきます。

アメリカ村——一軒の喫茶店から広がった、若者の街

御堂筋を挟んで心斎橋の西側、アメリカ村(アメ村)は、まったく別の時代に生まれた街です。始まりは1969年。日限萬里子(ひぎり まりこ/1942〜2005)という女性が、当時は倉庫街だった三角公園の前に、喫茶店「LOOP」を開きました。

この店に感度の高い若いデザイナーたちが集まりはじめ、やがて周辺に、アメリカ西海岸から持ち込んだ古着・ジーンズ・中古レコード・サーフボードを売る店が増えていきます。安く借りられた空き倉庫や駐車場を使って、日本ではまだ珍しかった品をフリーマーケット形式で並べたのが、いまのアメ村の原型です。この流れを見た日限萬里子が「アメリカ村」という呼び名を提唱し、街の名前として定着しました。

三角公園を中心に古着屋やレコード店がひしめく一角は、いまも大阪の若者文化の発信地です。心斎橋の整然としたブランド街から一歩西へ入るだけで、街の空気ががらりと変わる——この落差が、御堂筋の西側の面白さです。

御堂筋——幅6メートルの道を、43メートルに造り替えた

心斎橋と本町のあいだを貫く大通りが御堂筋です。いまでは幅約43.6メートル(24間)、梅田から難波までの約4キロを結ぶ大阪のメインストリートですが、もとは幅6メートルほどの細い道にすぎませんでした。

計画が決まったのは大正8年(1919年)。「大大阪の中心街路にふさわしい幅と体裁を備えていなければならない」という理念のもと、単なる道路ではなく「近代都市・大阪の顔」をつくる事業として構想されました。恐慌や用地取得の難航を乗り越え、1937年(昭和12年)5月に完成します。それまでの目抜き通りだった堺筋に代わる、新しい大阪の背骨でした。

沿道の銀杏並木は御堂筋の象徴です(淀屋橋より北はもともとプラタナスが植えられ、のちに銀杏に植え替えられました)。秋、この並木が一斉に黄金色になる風景を目当てに訪れる人もいます。細い旧道を、街の未来のために思い切って造り替えた——その決断の跡を、いまも歩けます。

船場・本町——大阪の商いが始まった、問屋の街

本町を含む一帯は、古くから船場(せんば)と呼ばれてきました。北を土佐堀川、東を東横堀川、南を旧長堀川、西を旧西横堀川——四方を川に囲まれた、南北約2.1キロ・東西約1.1キロの区画です。名は、川の船着場があったことに由来するといわれます。

船場の始まりは、豊臣秀吉の大坂城築城にさかのぼります。城下町を整えるため、秀吉は堺や京都・伏見から商人たちをこの地に集めました。江戸時代には水運の拠点として全国から人・物・情報が集まり、金融・薬・繊維の問屋が軒を連ねる、国内屈指の商業都市へと育ちます。「天下の台所」と呼ばれた大阪の、まさに心臓部でした。

その名残がいちばん濃いのが、本町の北にある道修町(どしょうまち)です。ここは江戸時代から続く「薬の町」。いまも製薬会社や薬関連の企業が集まっています。町の守り神が少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)、通称「神農さん」。日本の薬祖神・少彦名命と、中国の薬の祖神・神農を祀る社です。文政5年(1822年)にコレラが流行した折、薬種仲間が病除けのお守りとして「張子の虎」を配ったと伝わり、いまも神農さんの授与品として親しまれています。買い物の街の一本裏に、商いの400年が静かに続いています。

適塾——緒方洪庵の私塾から、近代日本の学びが

薬の町・道修町の話をしましたが、この船場には、日本の近代そのものを準備した場所が残っています。適塾(てきじゅく)。蘭方医で蘭学者の緒方洪庵(おがたこうあん)が天保9年(1838年)に開いた蘭学の私塾で、弘化2年(1845年)、いまの北浜(船場の北のはずれ)の町屋に移りました。現存する日本で唯一の蘭学塾の遺構として、国の史跡・重要文化財に指定され、いまは大阪大学が保存・管理しています。

この小さな町屋から、驚くほどの人材が巣立ちました。慶應義塾を創った福澤諭吉、日本陸軍の礎を築いた大村益次郎、日本赤十字社を興した佐野常民、安政の大獄に散った橋本左内——名を挙げればきりがありません。塾生は署名の残るだけで600人を超え、判明する範囲でも千人以上。幕末、商人の町・大阪に開かれた一つの塾が、近代日本の医学・軍事・教育の源流になった——それがここです。

緒方洪庵の仕事は、教育だけではありませんでした。嘉永2年(1849年)、洪庵は道修町に「除痘館(じょとうかん)」を開き、牛痘を使った種痘で天然痘の予防に取り組みます。治療費を取らず、全国へ痘苗(種痘のもと)を分け続けたこの活動は、日本の予防医学の先駆けとなりました(除痘館は適塾とは別の建物です)。買い物や食べ歩きの合間に、船場の一角でこうした「大阪が日本の近代に果たした役割」に触れられるのも、このエリアの奥行きです。

アクセス

なんば・道頓堀Osaka Metro御堂筋線で1〜2駅、または徒歩圏
梅田・大阪駅御堂筋線で数駅、乗り換えなし
新大阪(新幹線)御堂筋線で乗り換えなし
関西空港なんばで南海に乗り継ぎ
京都淀屋橋から京阪、または大阪駅からJR
USJ本町から地下鉄中央線で西九条方面へ

心斎橋・本町は御堂筋線が背骨を通り、梅田・なんば・新大阪へすべて乗り換えなしで出られる、大阪でもっとも交通至便なエリアの一つです。ミナミの繁華街とキタのオフィス街のちょうど中間で、観光にも出張にも動きやすい位置です。

よくあるご質問

心斎橋の商店街まで歩けますか?
このエリアのお部屋の多くは、心斎橋筋商店街やアメリカ村まで徒歩圏です。お部屋ごとの最寄駅と徒歩分数は各ページに記載しています。
梅田・なんば・新大阪へは出やすいですか?
Osaka Metro御堂筋線が通っており、梅田・なんば・新大阪へいずれも乗り換えなしで出られます。大阪でもっとも交通の便がよいエリアの一つです。
夜は静かですか?
心斎橋筋やアメ村の中心は夜も賑やかですが、本町や船場側は問屋街・オフィス街のため、夜は静かになります。落ち着いて過ごしたい方はそちらのお部屋をお選びください。
買い物に便利ですか?
心斎橋筋商店街やアメリカ村が徒歩圏で、大阪でも屈指の買い物エリアです。営業時間は店舗ごとに異なります。
出張の拠点にも向きますか?
本町は大阪有数のオフィス街で、御堂筋線・中央線・堺筋線が交わる交通の要所です。新大阪へも乗り換えなしで、出張の拠点にしやすいエリアです。
何名まで泊まれますか?
お部屋によって異なります。人数で絞り込んでお探しいただけます。グループやご家族向けの一棟貸しもあります。
キッチンはついていますか?
お部屋によって異なります。一棟貸しではキッチン付きのお部屋があります。設備は各お部屋のページでご確認ください。
京都への日帰りはしやすいですか?
淀屋橋から京阪電車で京都方面へ、または大阪駅からJRで、日帰りできる距離です。